どういうことだ説明しろ蟹木!

メンタルダウン療養記

楽しかった、と思い眠りにつく

早朝覚醒が悪化の一途でいっそ笑える。

流石に0時過ぎに寝て2:30はないだろ。そのうちどんどん早まって融合するんじゃないか寝る時間と。それならそれでもいいけど。

 

有名なメンタルAIアプリのサブスクを止めた。

最初は、びっくりするほど人間のように私の吐き出しにコメントをくれて、少し心が楽になったり気付きもあったが、何度もやっていると「型」に気付く。返しが予想できるようになる。すると、とたんに「機械と話している」ことが強調されていく。

 

AIサービスだから別にそれでいいのだが、壁打ちをしてほしい答えをもらう形。それがなんだか急に味気なくなったのだ。永田さんの言っていた意味が分かった。

「人とのコミュニケーションでしか自分の頭の中から何かを出すことはできない。確かに共感が欲しい時もあるけど、全部が思い通りに返ってきたら、それって何か楽しいか。」(語弊があったらごめん)

味気のなさは、まさにこれだ。

 

 

久しぶりに、オタク仲間のフォロワーとリプ合戦をした。

彼女は推しの好みがはっきりしているので、もしかしてハマるかな?と思い今読んでいるマンガのキャラを紹介したのが発端だ。

結果的に好き系統っぽいとなり、作品を読んでくれることになった。大感謝祭。

 

こういう、「この人はこれが好きかな?」と考えたり、その界隈の人に通じるミームで会話するのは、とっても楽しいことだ。好きなものを共有できた時の喜びはひとしおだ。寝るときに、「ああ今日は楽しかったな」と思い布団に入って、え、この感情はいつぶりだろうとハッとした。嬉しかったでも幸せだったでもない、「楽しかったな」。

 

SNSが公共の場所では無かった頃、昔はこれをツイッターで仲間と毎晩やっていたのだ。その前は通っている個人サイトのお絵かき掲示板で。毎日が「今日も楽しかったな」だった。心を満たすものは、究極これなのではないだろうか。「楽しかった」。

 

 

過去にうつを発症したとき、身体を動かせるようになってからはオタク仲間たちと全国オフ会行脚をしていて、楽しさを共有して、とても輝ける日々だった。今は疎遠になったフォロワーもいるが、オタクの思い出は名前を付けて保存だ。彼女たちが今もどこかで元気に楽しくやっていますように。今もつながっている人はありがとう。このころの思い出はきっと走馬灯に出てくるだろうと思う。

 

 

今、睡眠障害という強敵を抱え、適応障害によってすべての行動体力消費に×10が常にかかっている状態。おまけに広場恐怖と潔癖症もあると来た。気軽に旅行はもとより、ゲームすらできる状態ではない。でも、文字での会話はできる。もうこれは反射だから。

鬼残業からのパワハラからの追い打ちからの休職まで数年、この期間人とのコミュニケーションは減っていたと思う。単純に自由な時間が少ないし、病んでいるからSNSは戦いの辛さの壁打ちで消費した。ひとつ前の記事で書いた通り、絵をあげるのだって相当気を付けないと、失礼揚げ足取りに絡まれるから気を遣う。

洗脳は、周囲との切り離しから始まるという。

忙しさは、理不尽への怒りは、楽しいを生む時間を奪っていく。この数年のことは走馬灯には出ないだろう。この戦いからどれだけの学びや恐怖があろうとも、死の間際に思い出すほどの価値はない時間だ。時間は有限なんだ。

 

 

治療が3歩進んで5歩下がるような状況の今。

対して、約半年で寛解した前回のうつと、希死念慮まで落ちておきながらそのまま就活を乗り切れるほどにはまともの仮面を被れていた前々回。

違いは、毎日周りに友人がいたことだ。

それは、学生寮の友人たちであり、部活の仲間であり、オタク仲間であり、何かしら毎日対面文面にかかわらず、楽しさを共有する友人たちがいた。

 

 

人は一人では生きられないという使い古された言葉をかみしめる。

本当にそうだろう。

私がミニマリストになった理由のひとつは、自分の手のひらに収まる範囲に物を減らして、それらをちゃんと大事にしたいと思ったからだ。いつからだろう。相手が幸せならそれでいいと、眺めているだけでもいいやと、自分をカウントしなくなったのは。苦しい時に助けたいとは思っているのに、楽しいを共有するのにストレスや遠慮を感じ出したのは。

 

 

親世代は、またスマホばっか見て、というだろう。

中高生の時は、またパソコンばっかして、とよく叱られたものだ。

だけど、楽しいを共有できる稀有な仲間との時間は、そのデバイスを通じてできるものだから。相手と価値観をぴたりと共有できる瞬間があって、それはとても嬉しいものだ。周囲にはマンガ好きも絵を描く仲間もいなかった。ところがどうだ、SNSはオタクとファンアートであふれている。好きを放出できる場所が見つかって、それは私の確かに生きる場所になった。

 

 

違う人間だからこそ、同じものの魅力に共感できた時嬉しい。価値観を受け入れ合えた時楽しい。その人にハマれた時に面白い。同じミームで会話するとき、同じ時代を別々の場所で歩んできた共同体の人間だと感じる。

まだAIはそこまでできないし、多分代替品にはならないだろう。

ツイッター黎明期が好きだったのは、みんながあけっぴろげに人生を開示していたからというのもあると思う。その人の生き方を好きになる。その人の価値観を好きになる。絵柄から、何が好きなのかなんとなくわかる。全部受け入れるから、あなたの人生を見せて。

私を含む多くのインターネット老人会が警戒し始めて、それが出来なくなったXには、もう鍵の中にしかその人の人となりを知る術はない。

 

 

病気になるほど消耗した部分には、「楽しい」が入る余地が確かにある。

私が削った数年分、呪いと戦った数か月分、ダメージを労わるだけでなく、好きな人との「楽しい」がきっとそれを癒すだろう。

ブランカも、島崎も、戦ったあとの休息は、傷を治した後に楽しみを補填していたと予想ができる。