どういうことだ説明しろ蟹木!

メンタルダウン療養記

晴れてハレルヤ

魔法陣グルグル1期(2期?)のOP。

今日はふと思い出してこれを聴きながら歩いたんだけど、こんなにド直球ポジティブな曲って今あんまないな~と思った。音楽に詳しくないので私が観測できてないだけかも。あったらごめん。

 

「世界中の大好きを集めても君に届けたい思いに足りない」

「体中の愛が飛び出しそうさ 僕らの鼓動はすべてを塗り替えてく ハレルヤ」

 

この直球さ、エネルギー、盲目さも含めて大好きだ。世界観合うよなあと思っている。異論は認める。

ノスタルジーボーナス込みでとてもいい気分になった。久々に天気も晴れたし。今も聴くだけでOP映像をそのまんま脳内再生できる。幼女の頃の青春だ。

幼女蟹木はいつか素敵な冒険をできるんだとぼんやり思ったまま成長した気がするし、できないと気付いてうっすら絶望した気がするし、心のどこかでひっそりと諦めていない気もする。

 

 

魔女にも、魔法にも、占いにも、小さいころからずっと憧れがあるしきっと一生そうだろう。本当に何に転職してもいいなら魔道具売りになる。

 

 

それはさておき、この10年ほどは同人女の端くれとしてそこそこ日常的にマンガやイラストを描いてきたし、その時夢中になったジャンルのオンリーイベントにも参加してきた。

制作中はずっと同じ音楽をループして聴くことが多い。そうするとテンションを一定に保てるし、イラストの方向性も迷わない。イラストの裏テーマ自体がその音楽になっていることもある。

 

 

昨日私に「明日を楽しみにする」希望を2年ぶりにくれたマンガ「ジャンケットバンク」もそうだし、ひきこもり適応障害を一時的に明るい気持ちにした曲「晴れてハレルヤ」もそう。改めて創作とはすごい力があるんだなー、とぼーっと電車によって精神科に運ばれながら考えていた。

 

 

同人オタクならわかってくれる人も多いと思うのだが、オタクにとってジャンルとは「合法のふしぎなくすり」であると常々思う。

同じジャンルのオタク同士で遊びに行けば、ここに推しがいたらきっとこうだとか、お手軽に集団幻覚を見る。単純にレジャー施設でアトラクションに乗るだけではない。ただの道も聖地になり、文字通りひれ伏し巡礼する。風景を幻覚込みの画角で写真に収め、後日イラストを合成し、より多くの同志と共有する。なによりもアドレナリンがどばどばと出る。それでいてその幻覚は健康を害さないし無料なのだ。脳の中で出ているだけだから。

それを生み出す元の原作者および関係者は、頭を地面にめり込ませる勢いで感謝する対象だ。道で出会ったらお金を払ってしまうかもしれない。

とはいえ、私は神に観測されたくないタイプのオタクだ。我々民草がどれだけ感謝祭や収穫祭をしようとも、神には気になさらないでいただいて、気が向いたときにたまに雨を降らせて下されば十二分すぎると思っている。純粋に神が生み出したもうた唯一無二の世界観を味わうことができるのが、取るに足らない民草にとって何よりのお恵みなのだ。その神の世界に介入したくない。純度100%の神の創作物が何よりの喜びなのだ。

 

また、現代は二次創作をテーマにした一次創作が出るような時代になったが、それでもやっぱり二次創作同人は日陰の活動だと心得ている。創作物は売るのではなく絶対に頒布だし、公式のお目こぼしによって成り立っている巨大な闇市の一員である。ルールがあればしっかりと守り、身の程をわきまえて、世の中に極力迷惑のない範囲で、しっかりと棲み分けて、体の外に叫ばないと壊れてしまいそうな愛をイラストにして昇華する。私が栽培したりやり取りしているのは闇市の米。そういう平成の鎖を刻んだまま生きていないと厄介な化け物になってしまう気がして怖いのだ。

 

なお、これは私個人のオタク観であってすべてのオタクがこうでないことは注釈しておく。オタクの数だけ楽しみ方と倫理があり、それを束ねる術はない。昔はあったけど。毒吐きネットマナーが。

 

 

以前うつになった時は、明確にステップを踏んで回復した。

「①何もできない期」「②ひたすらしたいことだけする期」「③遊ぶ期」「④回復期」「⑤生産的活動期」「⑥復職(超怖い)」だ。

②の時期に、ひたすらニコニコ動画2chまとめを巡回したり、フリータイムで満喫に入って、文字通り寝食と時間を忘れて読みたい漫画を読み漁ったりした。満喫って薄暗いから時間経過の感覚が希薄で、気が付いたら24時間経っていたこともあった。体内時計なんてぶっ壊れていた。おなかがすいたら食事は頼めるしソフトクリームもあるし。人って寝ずに24時間ぶっつづけで漫画読めるんだな。

ニコニコ動画では、踊ってみたやRPGツクールのプレイ動画、卓ゲのリプレイ動画、MMD動画などをひたすら見漁っていた。いまでこそ動画コンテンツはYouTubeが主流だが、当時のオタクの活動の場所と言えばニコニコ動画だった。

投稿者は、収益目当てというより、各々の得意なジャンルで同人活動の延長をしているような感じだった。だからこそ、まあまあグレーな活動もお目こぼしされていたのかもしれない。それが私を少しずつ元気にしていった。

 

 

同人界隈は不思議な界隈だ。これは言われつくした言葉だが、創作者は、寝食と魂を削ってまで、利益も出ないのに、むしろお金を払って、企画・制作・入稿・宣伝・頒布をたった一人でこなす。非オタの友人に同人活動の話をすると「仕事じゃん」と言われた。ワロタ。

そういう、「好きだからやってるだけ」の人たち。そういう人たちが集まる場が心地よかった。誰もかれもが私から見ればプロのような技術と知恵をもってして、ただただクオリティの高い趣味を作り出す。その愛と熱量と、純粋に内容の面白さに、どれだけ私は救われただろうか。

同人活動をしていたかにかかわらず、仕事由来でうつになることは避けられなかっただろう。でも同人活動をしていなかったら、そのうつから立ち直れなかっただろう。何のよすがもなく、今頃死んでいたのではないだろうか。私は創作と、それを通じてできた友人たちに救われたという他ない。

 

 

メロスにはAIがわからぬ。

ただ、「AI絵師」が存在し始めたことは知っている。

AIに既存のイラストを版元の許可無許可など問答無用で食わせ(許可があれば別にいいとは思うけど)、何かを生成する様は、金になるからと特定の動物を狩りしすぎて絶滅に追いやるような感覚を覚える。普通に考えて、「じゃあ私でなくていいじゃん」になる人は多いと思うよ。

効率が良くて面白けりゃいいが大多数なら、効率が良くて面白けりゃいい世界になっていくだろうが、私は何の得もないのに情熱だけで爆走する野生のプロたちのエネルギーに生かされた。AI主体の世界はそこには行きつくだろうか?

ナイフもロープも使い方、マナも良いマナにするか悪いマナにするかは心次第。素晴らしい技術なのだと思うが、それに筆を折られることはどうしたらいいんだろう。好きが通貨の闇市が資本に浸食されないでほしいと願う。上手な共存とは。

難しいことはわからないし、私の言っていることはブラウン管のテレビに固執する頑固ジジイの言い分なのかもしれないけれど、私の救われた世界がなくなった世界にいたくないなと思うだけなのだ。私を救ってくれた顔も名前も知らない多数の人が、その熱を受け継ぐ人たちが、ずっと楽しくいてほしいと思う。

 

 

私はずっと2008年~2015年頃のインターネットが大好きで、多分ボケてもこの頃の楽しかった話をするのだろう。

ここ最近、ずっと「好き」と「収益」の距離が近いと感じている。

そうしないと様々なプラットフォームは維持できないぞと言われればそれまでだし、それはそうなんだろうし、誰だってお金は多いほうがいいし、私もお金があることの絶対的安堵感は知っているし、好きなことで稼げるのは素晴らしいと思うし、特殊技術には相応の費用が発生するのは当然だと思うけど。

でも、一抹の寂しさと、なんだかずっと後ろを詐欺師に尾けられているような落ち着かなさがずっとある。

ドリルを買う人はドリルではなく穴が欲しいのだという有名な話がある。私が欲しいのは、コンテンツそのものじゃなくて、飛び交う狂気的な熱気なのかもしれない。

 

 

こういう話書くつもりじゃなかったんだけどなんかこうなったな…

自分を言語化していく作業は、正誤はともかく、整理されていく感覚があっていいなと思う。なんらかのセラピー的効果がありそうな気もする。