どういうことだ説明しろ蟹木!

メンタルダウン療養記

自分への攻撃

自己免疫疾患の見える化かよ!?と特殊なツッコミをせざるを得ない状況を見かけた。

 

Xのおすすめ欄は、毒も薬も水も流れてくるので、薬だけ流れてきてほしい。怒りやショックの処理だって工数使うんだから。

 

 

 

Xで、「ADHDは、自分の失敗について、すぐ仕組み化すれば解決する的なこと言うから相手をさらに怒らせる」と言っている人がいた。(語弊があったらごめん)

この右ストレートは私に効いた。やめたげてよお!何を隠そう、私は仕組み化推奨派だ。私もADHD疑いだが、工場の5Sとか、トヨタの片付けとか、療育の事例とか、そういうのが大好きなのだ。だって、「誰でもできる」ようにされていることほど、美しくて救われることはない。し、実際に世の中のいろいろなところでそれは取り入れられ機能している。

既存のマニュアルでできない人がいたり、労災が起これば、何が原因だろう?と分析して、別の手を打ってみる。そうして改善って進んでいくんだ。何も悪いことじゃないし、私はとってもいいことだと思っている。

 

 

健常者にはそう思われてる…ってコト!?と思い、そのポストのリプ欄とプロフを見た。その人は自身がADHDだと書いていた。

いや当事者なんかい!!!!!!なんでそんな自分と同胞を串刺しにするようなこと言うの!?ずっこける思いだった。

もうやだ~と思いその人のことは全然知らんがブロックさせていただいた。精神衛生に良くないからね。

 

 

なんでこんな自傷みたいなことするんだろ。

主語がでけーのだ。私はむしろ仕組み化推奨の会社で働いていたことが長かったから、弊社くんに来てあまりの仕組みのなさと整理整頓の概念のなさに恐れおののいた。担当者が辞めたらその人の作ったものの詳細は誰も知らない。成果物をどこに発注したかすら。ぞっとした。同僚が取引先にあたりをつけて「この成果物って御社に依頼したものでしたっけ」とか聞いてくれてありがたかったが、いやその前にフォルダが整理されてればこの工数はいらなかったってばよ。

なまじ「優秀な」人が多いので、平準化しようとかいう考えが出ても来ないのだろう。

 

 

例のポストの主からは「これだからADHDはダメ」というニュアンスが読み取れたため、てっきり健常者のポストだと思ったのだが、全然自傷だった。正しいことを言っているはずなのに怒られるそのコンフリクトを自傷自虐したのだろうが、主語を「私」にしてくれよ。こっちまで傷つく。私は全然ダメじゃないと思うで…

話し合いと、時間が足らんのだろうな。知らんけど。

 

 

しかし全然知らん人のポスト一つに落ち込むのも非常にナンセンスで時間の無駄だ。見たくないんだから見せないでくれよおすすめタブ。AIもまだまだだね。

だけど人の振り見て我が振り直せとはよく言ったもので、私はこの人以上の自傷自虐を今まで続けてきたんじゃないかなあ、と思った。すべての思考は「お前はダメだ」からスタートする、ASC山羊座土星合の女。

資料作りを勉強して、よく褒められるようになったタイミングがあった。きっかけは、あれ、他社(今の弊社)にしたプレゼンが全然伝わってねえ…と思ったことだった。文化が違うから?

それ以来、私は「相手は私の話など聞きたくないと思っている。それでもまあ流し見たらなんとなくわかる資料」「私みたいなポンコツでも眠くならないし理解できる資料」を目指して勉強してきた。成果は一応あったものの、根底にあるのは果てしない自虐だ。謙虚の域を超えている。ちょっとずつ、私の自尊心をそぐ考え方だよなと今は思う。考え方としては悪くないと思うけど。

 

 

中学生の時、クラスメイトのごり押しを断れず生徒会役員になったことがある。

ちょっと後ろめたかった。なぜなら、司会進行的な役どころだったのだが、それまでの私は生徒総会(生徒会が取り仕切る2時間くらいの全校集会)で毎度余さず寝こけていたからである。

それで、声のいい先輩の真似をして、「なるべくみんなが寝ない司会」を目指した。良い声って聞きたくなるじゃんなんか。あと簡潔にね。

なんか根本はそこから変わっていない、自分の中に原因を探すタイプなのだが、もっと視野を広く持ってもいいのかもと思う。私はいつも環境要因とかを考えない。自己改善っていちばん簡単だから。人を説得したりとかしなくていいし、「他人はすべからく私より優れている」と思っていたから。成績とかの話じゃない。ピアノがうまい人、闊達な人、自分の意見をはっきり言える人、盛り上げ上手な人… 私など足元にも。そう思っていた。

 

 

自分で自分を、必要以上に削いじゃいけないよな。

だって社会の中ですでに極限まで摩耗してるのに。消滅しちゃうよ自分でも削いでたら。

 

 

学生時代はそんなこんなでいろんなところでリーダーをする機会が多かった。

ポジティブにやれていたのは、大学の部活やサークルだった。学祭のある小チームのリーダーをしたときは、リーダーの役目とは「みんなが快適に作業できる環境を整えること」だと思っていた。広い作業場所の予約、疲れたタイミングでの差し入れ。いろいろやった。先日実家の片づけをしていたら、その時もらったプリザーブドフラワーとメッセージカードが出てきた。慕われていてびっくりした。過去の自分に凄いなお前と思ったし、改めてこれをくれたメンバーにありがとうと思った。

また、部活では、「せっかく興味を持って入ってくれた人たちが、このスポーツをもっと好きになれるように」と思って活動していた。ほめて伸ばすスタンス、挑戦するのも楽しいよと大会や合宿の提案。無理強いはしない。自分が楽しそうにしていることが一番良かったかもしれない。

社会人になってからはリーダーをやる機会なんてめっきりと減ってしまったな。

愛と奉仕、自分が楽しむこと。これは擦り減らない。なんで学生の頃はできるのに、社会に出たとたんできなくなるんだろう。学生って結局いろんなことに守られていて、社会は悪意がダイレクトに満ちていてヤバいのかも。家猫と外猫くらい環境が違う。警戒してなきゃ、すぐ食われるから、生きていけない。他人の精神を食って生きてる化け物は何なんだよ。社会に混ざるな。擬態型だ。

 

 

外猫でも、自分が警戒心を解いて優しくなれる、お気に入りの家や縁の下をいくつか見つけなければならない。警戒心は、自分をえぐるためじゃなくて、自分を守るためのものだと、今気が付いた。

警戒することは苦しいと思っていたけど、警戒するのに、自信を削ぐ必要はないのかも。ゆっくりと探していきたい。